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美術の世界では、習作は必要なことです。大変に勉強になります。似せて作るためよりも、
作品と作った方の、気持ちを知る上では必要なこととなります。私も何点か習作をさせて頂きました。
問題であることは、そこに銘を入れるかどうか。ここには180度違う目的があるからです。特に、盛上げ駒は、使い続けることにより漆が減り、彫り埋め状態となってしまいます。その駒を生かすかどうかは、その持ち主の心により変わってきます。
もし、駒として使い続けるつもりであるならば、盛り上げ直してもよいとは思います。
しかし、それは元の作者の作品ではありません。それを理解して使う心が無ければ、それは直す意味を失います。出来れば、直した軌跡を駒に入れることが望ましい筈です。
よく、使い込まれた駒は、脂がしみこみ、その上には漆がのらないと言われますが、そのようなことは有りません。奇麗に、木地を洗うことにより(やり方が解らない方は、やめて下さい、駒が痛みます。)ある程度の脂分は表面から取り除けます。また、漆がのる場所は、彫り埋めの漆の上ですので、きちんと盛上げることはそれほど難しくはありません。
腕によっては、本物と見間違えるほどにまですることは可能ですが、本物に似て非なるものであることは確かです。
なぜ、このような事を書くのか?それは、オークションの存在により、駒数の少なくなった名工の駒が比較的安価に手に入る時代となり、それを作り足すことにより、またオークションに出展してその差額を求める人たちがいる事実があるからです。決して許されてよいことではありません。それだけの腕があるならば、自分の名前を入れるべきであり、物故者の名前を汚すことはあってはならない。習作をするからには、その作品に対しての魅力があるから、それを求めてしている筈であるからこそなのですが、それがうまくいくようになると
「欲」という魔力に負けてしまう人もいるのです。「無名な自分を認めてもらいたい。自分にはこれだけの力があるのに」これがほとんどの理由でしょう。だったら、自分の名を入れるべきです。そこで、その方の本当の評価を待つだけの心の余裕を持って頂きたい。
掬水師との話もそこにありました。一度は泥水を飲む必要があるのです。泥水を飲みながら、評価を待つ。焦って、認められることは有りません。
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